ちえこ風呂具

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読み手はなかなか書き手の顔を想像できない

先日に引き続き、本田さんの21日の日記を読んでコメントを書こうと思ったんですが、そりゃもうまとまらないのでトラックバックで…とか思ったらほとんど自分の「ファンサイトにおけるネットコミュニケーションの考察」になってしまってなんだかなあ(苦笑)。なのでとりあえずリンクだけ。
例えば書き手に対して「こんなことを言ったら悲しむだろう」とか「怒るだろう」とかまた「喜ぶだろう」という感情は、なかなか読み手には浮かばないものです。もちろん書き手の立場との両立をしている人や、精神的に成熟している人ならば、まだ相手の立場を自分に置き換えることもできますが、それでも顔の見えない状況では手厳しいことも簡単に言えてしまう。ゆえに、意見交換がきっかけでネット喧嘩に発展する例も結構あります。
あと、私は誰かに何か言葉を発するとき、それはコミュニケーションの発生であると考えますが、そういう捕らえ方をせずにただ自分の主張を通そうとする人や、また「言い捨てる」事で書き手から与えられたストレスを発散しようという人もいます。また「ただ文句を言えば私の気持ちを聞き入れてもらえる」と思い込んでいる人もいます。
しかし書き手といってもWebでの書き手というのはあくまで一個人としてであり*1、どんな苦情をも受け止めるだけの気概を持ちなさい、と思うのがそもそも難しい話ではないかと思います。もちろんある程度の苦情を受け止める気概がないのはどうかと思いますが「何でも受け入れられるだけの根性があったらプロになっているよ」という事です。
また書き手側としても読み手に甘えて好き勝手な事を書いてしまうところがありますが、読み手というのは必ずしもこちらの思うようには動いてくれないものです。特に、反論ではなく非難だけをする人*2で、注意書きや、サイト内の他のテキストを読んでこちらの考えを勉強している人は稀です。彼らは自分達の読みたいものだけを読み、それを自分なりの解釈で理解し、言葉をぶつけます。広く相手を知り、分かり合おうという意志はあまりなく、どちらかと言うと自分の正義の押し付けで相手の意見は受け入れません。かと言って、こちらもそういう相手に対して上手な対応はなかなかできないものです。世の中の大半はやさしく、かしこい人たちなので普段はいつも甘えているのですが、こういう時の対応でコミュニケーション能力を問われるよなあ。
でも、読み手も意見を書いたところで書き手になるんですよね。書き手になった途端に、人は書き手として、書き込みの意見に評価を下します。批判すればその論理を問われます。でもコメントだけだと書き逃げができます。私は以前、ちょっと論理のずれた反論を貰ったときに、コメントではなくトラックバックかメールでくれと言った事があります。なおかつ意見が全く平行線だったので、ついにそのコメントは削除するという事でメールオンリーにしました。なぜかと言うと、自分の素性も明らかにしないでの言質は、最終的には責任を問われないからです。自由には責任が伴います。自由に発言をしたいのならば、せめて人格が判断できる程度のテキストを載せたサイトか、もしくはメールアドレスぐらい教えていただかないとこちらはわりにあいません。なおかつこっちはどんなに言いたいことがあっても相手を追いかけられないのですから、トラックバックやコメントが意見交換として有効になるのは、相手が自分の言葉に責任を負える時に限りますね。
ところで私が書くときに一番怖いと思うのは、実はタレントの目です。私の文章を読んで悲しくなられたらどうしよう、とネット上に上げた文章に対して後悔の念に駆られることは多々あります。
だからと言って甘い言葉だけを口にしていればそれは偽りです。また彼らは私達とは違ってプロであり、タレント業でお金を貰っている人ですから、お仕事に対してある程度の批判を受け止める覚悟がないと困りますし、覚悟のない人を長く応援していく事はできません。そしてもちろん、彼らはその批判を受け止めるだけの度量を持っていると思います。
でも彼らの悲しい顔を想像すると途端にそんな論理は全然役に立たないような、そんな気持ちになるんですよねぇ…。

*1:もちろんプロのライターの方も居ますけれども

*2:しかし非難と反論の見極めがまた難しいのです。