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羽海野チカ「3月のライオン」

最近、本屋に定期的に行かない所為で、気付いた時には既に新刊が出ていた…ということが多いです。というわけでいつのまにか6巻が出ていました。

3月のライオン 6 (ヤングアニマルコミックス)

3月のライオン 6 (ヤングアニマルコミックス)

最初の頃、将棋漫画の対局の描写が苦手だったのと主人公のあまりの暗さに若干引き気味で、購入したもののしばらく放置していたんですが、読み始めたらどんどん引き込まれていきました。羽海野チカの漫画にはコミカルな部分とシリアスな部分の対比というか組み合わせ具合が絶妙ですね。涙させられたかと思ったらぷっと笑ってしまう、そういう絶妙さに感動します。また、現実の過酷さと、そして人間だれもが持つなんともいえない温みみたいなものを感じさせてくれます。
特に今回の6巻については読み終わったら
何かを書かなければ!!
と思わせる衝撃がありました。
ひとつの文章にしようとすると難しいので印象的なシーンについて書いていきたいと思います。ここからはネタバレを多く含むので隠します

林田先生の熱意

ひなちゃんのいじめについて相談しに行った零に、熱血林田先生が教えてくれたいじめの内側。いじめ関連のサイトに書かれている様々な意見、そしてその後ろにある様々な人たちの背景。その説明の後の言葉
「どのケースにも効く「完璧な答え」なんてどうやったって出てこない」
「だからってあきらめる訳にはいかねえんだ!!「答えが見つかんないから何もしませんでした」じゃ話は進まねえ」
林田先生はホントいい先生だなあ、とつくづく思います…。
……あ、いかん、それで終わりそうになってしまった……
じゃなくて、いじめの問題にはいろんなテーマが潜んでいるんですが、それを「いじめる側」「いじめられる側」の両極で考えるのは怖いな、と私はいつも思います。なんかね、難しい問題なんですけど、ちほちゃんやひなちゃんをいじめているクラスメートが、ちほちゃんがいじめのせいで転校してしまっても平気で笑っていられるのは、それは彼女達が「いじめを悪いことだと思ってない」とか「悪い事を行っても平気だと思っている」わけではなくて……そうじゃなくて、彼女達はいつも心に「いじめ」という重いものを抱えている、と私は思うのです。
でも「人を平気で傷つけている自分」なんて向き合いたくない。向き合ったら自分が打ちのめされてしまう、だから重いものにふたをしてなかったことにしたいから、彼女は平気で笑っているふりをしているんではないか…と思うのです。そしてだからこそその自分の悪を証明してしまう人間をまた敢ていじめてくるんではないかと、そんなふうに感じました。
だってひなちゃんを認めるということは「悪い自分」に向き合わないといけないから。「悪い自分」に向き合えないぐらい弱いのに、どうして強い人を認められるのでしょうか?
私はいつもいじめ問題とか、犯罪とかを見るたびに「悪いことをしてしまう人」はなぜそこに向かっていくのだろう、と考えてしまうのですが、そんなことを考えてしまったと同時に、林田先生の「それでも一人一人の答えを見付けていかないといけない」という言葉になんかすごいな、と思ってしまいました。

「世界の中心は俺だ」と思っている(らしい)零の事

あっはっはっはっは!!!
多分前巻のどこかでもそこんところを突っ込まれた気がするんですけど、本人無自覚ですね。いや、わかる、わかるよーー!コミュニケート苦手な人間(私含む)はどっか心の奥底で「自分は正しい」「自分一人でもやってける」感があって、だからこそ必要な人とだけつきあって、あとは放置、無視??という感覚になるんではないのでしょうか。序盤の林田先生との会話でも、零は無視されたり、いなかった事にされたりすることに対して「プロですから、慣れてますから」と言って林田先生をビビらせてますが、それはやっぱり「自分一人でもやってける」と思ってるからなんですよね。まあ未成年でありながら既に自分でお金稼いでるし、余計にどっかそう思ってしまってるんでしょうね。
その傲慢さが後半の順慶との対局で如実に現れてくるんですが、そこを止めてくれるのが二階堂の「カッコつけんな桐山っっっ!!」なんですよね。そこで「自分はいつもこうだ」と自己中心的な考え方を持つ自分に気付くわけなんですけど、それがスミスの言う「どーせ中身は似た者同士」まで気付いているかどうかは微妙です。
というかたぶんまた同じことをやって落ち込むんじゃないかと思います。