ちえこ風呂具

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少女漫画のアイドルが少年漫画のヒーローになるまで

こないだのソロモン流で錦織さんが、アイドルというのは少女漫画に出てくる男みたいなものだ、という話をしていました。彼はそれが嫌で、少年隊の仕事をしている時は仕事スイッチを入れていた、と告白していました。
それを聞きながら思いだしたのはSWITCH 2006年2月号でのTOKIOのインタビューでした。インタビュアーの青木雄介さんがTOKIOの事をこんなふうに書かれています。

TOKIOの5人に流れる”男同士”の感覚は部活のノリか、男子校のノリに近い。「TOKIO」というタイトルの少年コミックを読んでいるかのような、メンバーそれぞれのキャラの立ち方と絶妙な役割配分はテレビでよく知っているところのもの。会えばその衒いのなさに面食らってしまうほど、その印象は変わらない。

先週からどうしてTOKIOは少女漫画ではなく少年漫画に例えられるのだろう?という事をぽつぽつ考えていました。
ひとつにボーカルである長瀬の外見と、池袋ウエストゲートパークのようなドラマにおける男性らしい役向きからくるイメージ。ひとつにDASHや昔やってたガチンコなどによる体を張ったバラエティ番組のイメージ。ひとつにダンスグループではなく、少年漫画の題材にしやすいバンドという形。
この三つの条件と共に私の中で他のジャニーズと違うなあ、と思うところがあって、それはTOKIOというグループがもともと非常に主張のはっきりしたグループである、という事です。
TOKIOは元々、ギターばかり弾いていたリーダーの為に出来たようなグループだと思います。名前と活躍する場を与えてくれたのはジャニーさんだけど、リーダーが「バンドをやりたい」と言わなければTOKIOは他のグループと同じようにダンスを踊っていたかもしれない、と最近思うのです。大体リーダーはダンスが苦手だけど全く踊れないわけじゃないし、そんなタレントは事務所に他にもいるでしょう。そしてグループに一人そういうメンバーがいても、ひとつの個性になってしまうのがこの事務所の強みであり特徴です。そういう中でリーダーが「バンドをやりたい」と言ってきたこと、メンバーが「自分たちの音楽をやりたい」と真っ直ぐに訴えてきた事が、事務所における彼らの自由なカラーを作ったように思います。彼らの主張は、決してすべてすんなり受け入れられたわけでもないし、結果が伴わないことも沢山あったし、挫折も何度も覚えたでしょう。主張が激しいメンバー同士で揉めた事もあるでしょう。
しかしその目標と挫折とそしてその先に生まれるメンバー同士の結束や達成感、そして成長が、時に少年漫画の様なメンバー同士の関係性やドラマチックさを生んできたのかな、と私は思ったのでした。あと彼らの「あきらめの悪さ」っていうのもあると思うんですね。TOKIOって事務所内でアイドルとしての成功ってあんまり得られてないと思うんですけど、でも自分たちのやることをあきらめないっていうのも、彼らの泥臭さみたいなものが出ているなあ、なんて思います。
ちなみに錦織くんの発言はアイドルとして間違ってないと思います。アイドルという役をきちんと演じる事、それによってファンを喜ばせる事はとっても大事な事だと思います。でも後になってああいう告白をするならば、いっそ当時はっきり主張しても良かったのではないのかな…でも時代が許さなかったのかなあ…なんて事を考えてしまっていました。