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最後の3週間−1日目、父が入院するまで−

父が倒れたのは12月27日で、62歳の誕生日を迎えた次の日でした。その前日の25日にはリハビリ専門のデイサービスセンターで誕生日+クリスマスパーティーが催されました。その時の写真は今もリビングに飾ってありますが、非常に開けっぴろげな笑顔でとっても楽しかったであろう姿が思い浮かびます。また26日には家族で外食をして、父の62歳の誕生日を祝いました。その時もとても楽しそうに笑っていました。
 ただしこの時から、少し倒れる前兆みたいなものを私は感じていました。父はすこしぼんやりしていて、帰る時も歩き方が少し覚束なくて、でもその時は雨が降っていて歩きにくいからだろうと私は思っていました。また帰ってパジャマに着替える時に、なんどもバランスを崩したりしていたのも、今考えると前兆だったのではないかと思います。
 とはいえ、父は元気でした。少し前から風邪気味で咳を繰り返していた母に「大丈夫か?」と気遣いさえしました。母は「私は大丈夫やで、お父さんは大丈夫なん?」と聞いたら「オレは大丈夫や」と返していました。また次の日も普段と何ら変わることなくデイサービスセンターに向かいました。その後普段通りにリハビリを行い、16時過ぎに帰って来てからは祖母とおやつを食べながらテレビを見てたわいないお喋りをしていたそうです。
そんな普段通りの父でしたが、祖母が自室に戻って用事を行っていた時から、少し様子がおかしくなりました。祖母のふすまを何度か開けて何か言いたそうにし、最後には「オレもうあかんわ」と告げたそうです。祖母は「疲れているのかな?」と思ったらしく、「ちょっと寝るか?」と言うと父は「うん」と返したので父をリビングまで連れて行き、横にならしたようです。そして布団をかけ、また用事があったので祖母は自室に戻って行きました。その時は普通に寝ているようだった、と祖母は言っています。
 その後、17時50分頃に帰ってきた私の目に飛び込んで来たのは、布団から出て部屋のドアの前で横になっている父の姿でした*1。私は普段夕方に寝る事がない父の姿に、少し異変を感じました。しかし以前、祖母を大喧嘩をして疲れて寝ていた事があったので「また喧嘩でもしたのかなあ」と思ったのですが、祖母に聞いた話ではそんなことはないとの事。
 それで父に声をかけてみたのですが、返答がありません。というか、何か言おうとしているのですが、言葉にならないといった感じなのです。一度は「疲れているのかな?」と思った私ですが、どうにも様子がおかしいので再度声を掛けました。やっぱりおかしいです。遂に「しんどいの?しんどいならいいや」と言うと一言つぶやくように「…しんどい」と言いました。これが最後の言葉になりました。
私はその言葉を聞いて、慌てて仕事に出ている母に電話しました。母は「30分で帰るから様子を見といて。病院に連れて行くわ」と言いましたが、30分を待たず父は呼吸がおかしくなりました。唾液が口からだらだらと出てきます。それでも救急車を呼んでいいものか、どうしたものかと悩んでいました。今考えるとバカな話ですが、私の心の中では危険信号が点滅しながらも「もしこれでなんともなかったら…」という気持ちがありました。私が帰って来た時は寝ている状態だったので「疲れて寝ているだけかもしれない。なのに大げさに救急車を呼んでいいものだろうか」と思っていたのです。
 しかし、その後しばらくして父が胃液を吐き始めたので「これはホンマにあぶない」と思い、救急車を呼びました。この頃には18時半を過ぎていました。そして父は胃液と血液を口から出しながら、救急車で運ばれました。母はまだ帰っておらず、私が動向しました。
 救急隊員が連絡をしますと、ありがたい事に普段観て下さっている病院が父を受け入れてくれました。また、当直で父の主治医が残っていたのも幸いでした。主治医のT先生は父の顔を見て即座に普段観ている父とは気付かなかったようでした。普段笑顔が絶えなくてしわくちゃだった父の顔が浮腫んでいて、普段と全く違う様子になっていたからでした。T先生は出されたカルテを見て本当に驚いていました。
 その後検査を行っている間に母がやってきました。調べた結果は、脳に水がかなり溜まっており出血も起こしており、この水の量がかなり多く、脳を圧迫して損傷も激しくて開頭手術をしても状態が良くなる事は非常に難しいとの事でした。そして脳に管を入れて髄液と血液と出す処置しか出来ないという事と、また出血が止まらなければ脳死状態になる可能性が大変高いとの説明もされました。
その後準備を待って、父の手術が行われました。T先生は管を通すだけなので1時間もかからない手術であると言われてましたが、実際には2時間半はかかりました。多分非常に厳しかったのでしょう。私と母と、そしてこの状態を聞いて慌てて掛けつけてくれた近所の叔父叔母夫妻で、祈るような思いで手術が終わるのを待ちました。できる事なら少しでもよい状態で手術が終わって欲しい、死んで欲しくない、と思いながら待ちました。もちろん手術は無事に終わったものの、当然のごとく厳しい状態は変わりませんでした。
 それでもすぐさま脳死状態になるであろう父は何とか命を免れました。そして父は自分の心臓を必死に動かしていました。その姿を見て私達は暗澹たる気持ちを抱えながらも「まだ可能性は残っている」と思い、家に帰宅したのでした。
帰宅すると時間は23時を過ぎていました。

*1:うちの家は玄関からリビングの部屋がよく見えるのです。