ちえこ風呂具

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引き続き犬のこと

私と叔父と犬の2人と1匹の生活から2人の生活になりました。正直寂しいです。
亡くなったことに打ちひしがれることはありませんが、ふと「ゆりこさん*1はいないんだなあ」という喪失感に苛まれます。亡くなった当日に火葬の依頼を行い、ゆりが直前まで寝ていた寝場所や食べきれなかった介護用の缶詰、飲みきれなかった犬用ミルクの容器などはほぼ片付けました。片付けないとゆりがいつまでも生きているような気がして現実とのギャップに苦しくなるからです。そしてゆりの遺体に何度も触れてお別れを自分の心に植え付けました。それでも屋根裏から2階を見下ろすとそこから見えるはずの姿が見えないことや、からっぽのペットシーツ専用ゴミ箱。買い物の際のふとした瞬間に「ゆりの死」というものが不意によみがえって胸が苦しくなります。しかし寂しくない別れなど絶対ないのだ、寂しい気持ちを抱いていて良いのだ、と自分に言い聞かせています。
不思議な事に亡くなって1日は犬の気配がしていました。不意に犬臭さが鼻をつきます。1階でお風呂に入っているときや、屋根裏で寝る前に(叔父が寝ている)2階でかすかな(人間ではない)足音が聞こえてきたり、かすかな泣き声が聞こえるような、不思議な錯覚を何度も覚えました。犬臭さは通勤途中の車の中でしたのですが、その度に「そうだ、先週この車の助手席にゆりを乗せて病院に行った」とか「叔父が腰の手術をしているときには病院まで一緒に連れていった」などそういう思い出が何度もフラッシュバックして、まるで今でも助手席にゆりを乗せているかのように思えました。でも横を見ると乗っているのは私の通勤用バッグで、なんともいえない気持ちになって涙を流しました。
でも家に帰ってお骨になったゆりの姿を見ながら手を合わせると「ああ、もういいんだなあ。ゆりこさんはもう大丈夫なんだなあ」と少し安心しました。
亡くなる前は不安で鳴きだしたり、吐きたいのに吐くものがなくて何度もえずいたり、一生懸命立ち上がろうとしてそのたびに転んでしまったりしていて、私はその度に抱き上げながら何度も「ゆりこさん大丈夫よ、大丈夫だからねぇ」ともう骨でごつごつした背中を撫でていたのです。でもそんな不安な事はもうこのこは感じなくていいのだな、痛くも苦しくももうないんだなあ、と思うと自分の中にあった心の重みが軽くなった気がしました。それまで「早くゆりのものを片付けなくては、早く、早く」とあせっていた気持ちも落ち着きました。水が入っていたトレイやペットシーツやシリンジなどは見るとふとゆりの名残を感じますが、前のような「見たくない、片付けてしまえ!」という気持ちにはなりません。
亡くなる直前はホームセンターのペット用品売り場に立つと泣きたい気持ちでいっぱいになりました。今まで山ほど買っていた犬用缶詰、おやつなどをもう買う必要がないのだ、もう私は犬用のミルクとペットシーツぐらいしか買う必要がないのだ、と思うと他の元気な犬を連れたお客さんの姿がうらめしく、ひどく寂しい気持ちになっていました。でも今はそこまで辛いとは思いません。終わるという事は始まることなんだな、と私は今しみじみ感じています。
今はたくさんゆりの話をして、さみしいという叔父と「さみしい気持ちをゆっくり味わうのもいいんじゃないか」と言いあっています。今は犬がいないことで味わう開放感*2にも少し寂しさが混じっていますが、しばらくはこの寂しさと共に少し自由な生活を楽しみたいと思います。

この写真は元気だった頃…というかどすこい状態だった頃のゆりこさん。ちょっと笑える写真です。

*1:ゆりのことをよく私はゆりこ、ゆりこさん、と呼んでいました

*2:出かける時に犬の存在を気にすることもない状態